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父の納骨
5月5日「子どもの日」が、私の誕生日です。
大人になると「子どもの日」が誕生日であることは、なんとなく気恥ずかしいのですが、今年は毎年父が作ってくれていた『ちらし寿司』を食べることはありませんでした。
今年1月26日の早朝に眠るように安らかに逝った父の納骨を、私の誕生日である昨日5月5日に済ませることが出来ました。
4日まで父の遺骨が置いてあった場所には、故郷の親戚の方達から頂いた父の大好物の西瓜やたくさんのお菓子が並んでいます。
昨年11月にすい臓がんが見つかった時には既に治療が出来る状況ではなかった父ですが、10月まで元気にごはんを食べて、毎日本を読んだり散歩をしたり俳句を作ったり…
『本当に末期癌だったのかしら ?? 』と今でも信じられないほど穏やかに毎日を過ごしていました。
そしてあっという間だった闘病期間はわずか2か月弱でした。
そんな短い間に、癌が治らないと知って父が一番気にしていたのは、お墓のことでした。
『故郷のお墓を綺麗にして、そこに自分も入れて欲しい』と言って亡くなる直前までお墓のことを気にしていた父でした。
( 父の大好物の西瓜‥‥食べるのは私(-“-))
故郷に残っている従兄弟達と久しぶりに何度もお話をして、実家のお墓を作り直しました。
そして、私の誕生日の5月5日に納骨をしようと言ってくれた従兄弟のおかげで、私は父の納骨日を決して忘れることはないでしょう。
10連休にも関わらず、従兄弟の子供たちまで集まってくれた賑やかな納骨でした。
爽やかな五月晴れできれいなお花を沢山お備えして、納骨をしようとしていたその瞬間、大きく華麗な蝶が現れ、お花の周りをクルクルと舞って去っていきました。
あれは、きっと父が、『きれいなお墓に作り直して、お父さんを故郷に帰してくれてありがとう!!』と伝えに来たに違いないと思いました
(蝶が舞っていたお花に囲まれたお墓)
そうだ!ブログを書こう!!
数えたら、5月5日は父が亡くなって100日目でした。
私のお誕生日に納骨をしようとしただけで、100日供養を意識したわけではないのですが、偶然の一致です。
細かいことは少し残っていますが、父が住んでいたマンションの部屋の整理も終わり、亡くなった後の整理も一通り終わりました。
父1人子1人の家族であることを知っている友人知人達、親戚の人達が、私の想像以上に私のことを気にかけてくれて、人の縁を大事にしようと改めて思ったりしています。
そして、1か月くらい前から、父のことをブログで書こうかなぁと考えていました。
私は父の唯一の家族だったので、父がそれなりに老いてから亡くなるまで、ずっとそばに住んで見守って来ました。亡くなる前日まで頭がしっかりしていた父だったので、介護というのはほんのわずかではありましたが、わずか2か月弱の闘病生活は、それなりに展開が早く中身が濃かったので、短い期間の一通りの手続きを経験しました。
癌闘病のブログ、介護のブログとパーツに分かれたブログはたくさんあるのですが、老いた親とどんな風に日常生活を送り、どんな風に看病をして、どんな風にお別れをして、そしてお別れをした後にしなければならない沢山の手続きなどについて網羅的に書き記したブログなどがないことに気が付いたからです。
タイトルのリストアップだけはしていたのですが、これをまじめに書いたらどうやら長いシリーズになりそうだったので、一区切りが付く納骨を終えたら書き始めようと考えていました。
「おやすみ」と言って逝った父
父は、早朝に苦しむことなく安らかに逝きました。向かいのマンションに住んでいるとはいえ、別々に住んでいたので実は本当の最後は看取っていません。
父が眠るように亡くなっていたのを見つけてくれたのは、訪問看護師さんでした。
私は、その前日は何故か夜中まで父の傍に付き添っていました。
浮腫んだ足をマッサージしてあげて、布団が落ちないようにしっかりベッドに挟み込んで、『お父さん、おやすみなさい!!また明日ね!』と言ったら、父は、『おやすみ』と返してくれました。そしてそれが最後の父の言葉になりました。
突然亡くなったので、びっくりして来てくださった方々や、実は見当を付けていたお葬儀屋さんとお話をする時も、かなり冷静だった私。
告別式の時も、従兄弟が「我慢しないで泣いて良いのよ」と言われるほど、ほとんど泣きませんでした。
おそらく、それは、父との最後の会話が「おやすみなさい」だったことが大きく影響していると思います。「さよなら」を言わなかったことで、父と強制的に別れるのではなく、私の気持ちの中で父との別れを自分のペースで消化出来たからだと思っています。
親子ともども口が達者なので、よく口喧嘩をしたり、お互いの掃除の仕方などに文句をつけていたりしましたが、振り返ってみると、私は父にやってあげられる親孝行は父が比較的元気なうちにやってあげることが出来ました。
父に向かいのマンションに住んでもらうようにしてから約10年、きっとやれることはやったという満足感の方が大きいからでもあると思います。
父の死後、親類や父の友人達から聞けたお話しからも、父もそれなりに満足していたことが分かりました。
私が泣いたのは、父の友人達から父のお話を聞いていた時でした。
自分が知らない父の一面を聞けることがこんなにも嬉しいことだと初めて知りました。
もちろん、僅か2か月弱の闘病生活でしたが、症状が深刻ではあったので、病院での対応や市役所等との手続きなどはかなり大変だったと思います。
実は結構無精者な私が、たくさんの手続きをチャキチャキとやっているのを自分では意外に感じていました。
そして、僅か2か月だったから良かったですが、父の闘病と看護や介護にかかるお金の管理は結構大変でした。
特定機能病院に指定されている大学病院での手続きも、日頃から金融庁や銀行などの煩わしい手続きに慣れている私にもかなりしんどいものでした(-“-)
『これらの手続き等をしながら、末期癌として緩和ケアをどうするか考えるのは、かなり大変なことなのでは?』
と、やりながらずっと考えていた私。
老後の在り方や、介護問題、末期癌治療の難しさと緩和ケアの重要性などなど、人が老いて亡くなって、そしてその整理をするまでにどんなことがあるのか私なりの視点でまとめてみたいと思ったわけです。
これも、「おやすみ」と言って逝った父だから書けることなんだろうなぁと思っています。
火葬場で最後にかけた言葉は、「お父さん、ありがとう」でした。
「ありがとう」というたった一言には、色々な思いが込められています。
それを忘れないうちにブログにして残そうと思ったわけです。
父が天国でそれを喜んでいると信じて…
(久しぶりにロウソクを消したお誕生日ケーキ(^o^))
To be continued
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荒井さん
ブログ読みました。最近ご無沙汰していますがお父様を亡くされたのですね。いつも元気な荒井さんだから何となく困ることなんかないのかな、と思ってしまいますが色々な事を経験されているのだな、と改めて思いました。またお会いしたいと思います。頑張って下さいね。人生は長いようで短いからお互い「live fully」しましょう。
遅ればせながらお誕生日おめでとうございます🎂
五十川さん、ご無沙汰しております、お元気ですか?
実は2月にコスタメサに行っていました。Andyには父が膵臓癌だと分かった段階ですぐに連絡をしていました。
あっという間のことだったので、連絡をしていたのは最低限の方達だけでした。
もともと父が亡くなるのはもっと先だと思い予定を入れた2月には、Andyご夫妻にとても労われて、元気をもらって帰ってきました。
仕事のこともあり、近々また行くつもりです。その時はご連絡しますね。
もう大分落ち着かれたころ化とは思いますが、ご愁傷さまでした。
こういった時に気の利いた言葉など書ければよいのですが残念ながら素養がありません。代わりに私の好きな歌を残します。
形見とて何か残さん春は花夏ほととぎす秋もみぢ葉