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バタバタの大晦日
30日の夜中に緊急入院をした父のために、私は再び入院に必要なものをパッキングして、大晦日にN大病院に運び入れました。
前回のブログ 大晦日の緊急再入院
父「遅いぞ~!!何やっていたんだ…」
と機嫌が悪そうな父。鼻から胃の中の排泄物は出しているので苦しくないらしく、今か今かと着替えが来るのを待っていたらしい‥‥(-“-)
早速、私が持ってきたパジャマや下着に不満を言っていた父ですが、ちょうどその時、廊下に、アメニティグッズを借し出す業者の方がパジャマ、甚平さん、タオルなどなど持って、年末最後の配布作業にやってきました。
「薫、浴衣か甚平さんを借りれるようにしてくれるか~」
ブツブツ文句を言えるほどはまだ元気なので、年末ギリギリにアメニティを借りられてホッとしました。
お正月3日まで配布には来ないそうなので、たくさんの甚平さんを確保して、一安心。
持ってきた日常品を定位置において、とりあえず落ち着いた父ですが、再び絶食となってしまいました。
お墓について
甚平さんを着て落ち着いたら、今度は、ロビーで田舎にいる私の従兄弟達に電話をすると言い出しました。
元気そうにはしていますし、実際に頭もはっきりしていて痛みもまだそれほど酷くはない父は、顔色が少し悪いくらいで、深刻な病人には見えませんでしたが、この緊急入院で、自分を死期を悟ったようです。
従兄弟に電話をすると、古いままの実家のお墓を建て直すお金を自分も出すから、お墓を立替えて、自分はそこに入りたい…($・・)/~~~と切り出しました。
どうやら、私の他の従兄弟達に意見を聞いてから、本家に電話をした様子です。
「もう、そんなに長くないから、年が明けたらなるべく早く一度会いにきて欲しい。」
そう言った父の横顔はとても寂しそうでした。
後から知りましたが、父はつかの間の退院の間に、もう一度会いたい友人達と、お墓のことを相談した従兄弟達へ電話を掛けていたようです。
「声は全然元気そうだったから、まさかこんなに早く亡くなるなんて… 😥 」
父が亡くなった後に皆さんにお知らせをした時、そんな風に言われました。
亡くなるギリギリまで元気でいられたことが良かったのか?それとも、元気だったから無理をしてしまったのか?
今となってはどちらなのかは分かりません。
けれども、主治医の先生も、父の友人たちも、最後まで意識がしっかりしていて、私の看病を受けられたのは幸せだったと言ってくれています。
本当に幸せだったのでしょうか?お父さん、出来れば夢に出て来て教えて欲しいなぁ・・・ 🙄
一人ぼっちのお正月
病院に荷物を置いて家に戻り、父と一緒に食べるはずだったおせち料理が百貨店から届き、父が作ってくれた栗きんとんと黒豆を冷蔵庫の中に整理しながら、
「お父さん、最後のお正月になる可能性が高いのに、一緒に過ごせないんだね 😥 」
と、独り言を言いながら私は静かに涙を流していました。
この平成最後の大晦日、私は紅白歌合戦もゆく年くる年も、全く覚えていません。
覚えているのは、寒い夜空を見上げて見つけた綺麗な星空です。
「お父さん、見てる?きれいな星空だね。明日はお正月だよ…」
自分のマンションの炬燵に入りながら、父に語り掛けていた私。
『もうすぐ一人になる』ということが現実味を帯びてきた瞬間でした。
そして、お正月元旦、父は痛みがあったらしく眠れず日の出を見たそうです。
あまり気分が乗らない中で、実業団駅伝を見ながら父が作った栗きんとんと、父に食べさせたかった金沢の料亭のおせち料理を食べながら、電話で父と話をしました。
「薫、お正月一人にして悪かったね。退院中、もう少し気を付けて過ごせば良かったのに、お父さんが悪かったね… 🙁 」
電話で寂しそうに、でも少し照れながら話していた父。父には隠していたけれども、電話で話をしながら、私は涙が流れるのを止めることが出来ませんでした。
最後のお正月は一緒に過ごせなかったけど、私の心の中にはお父さんと過ごしたたくさんのお正月の思い出があるから大丈夫、いつまでも忘れないからね、お父さん。
To be continued
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