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退院許可の電話
前回のブログ膵臓癌患者、うな重を目指す!
毎日、仕事&病院&各種手続き&お正月どうしよう問答(おせち料理を注文すべきかどうか、毎晩某百貨店のおせちコーナーと睨めっこしながら、売切れ状態を確認していた私)を続けながら、最寄り駅から家に向かって歩いていたクリスマスまであと1週間を切った夕方、私の携帯にN大病院から電話がかかってきました。
『荒井さんのお嬢さんですか?N大病院消化器外科の看護師です。今お話し出来ますか?先ほどまで主治医の先生たちが話し合いをしていたのですが、お父さん、退院出来ることになりましたよ!!』
『えっ!!!!(^_-)-☆』
一瞬何を言われたのか?消化しきれなかった私。
もしかしたら、このまま退院できないかもしれないと言われながら、その予想に反して順調に回復しているようには見えていたけれども、末期癌患者に現れる足のむくみなどが出てきているのを見ていたので、退院が絶対に出来る入院であるとは信じ切れていなったのです。
そんな中での突然の退院許可の連絡。
嬉しいですが、準備が必要です。そのまま電話で看護師さんと、ストーマの用意。家の中の整理。介護認定のスケジュール等を考えて、25日を退院の日にすることにしました。
そう、クリスマスの日です。
父はギリギリクリスマスには家に帰ってこられることになったのです。
そして…
それから、父のテンションはドンドン高くなり、鰻屋さんの準備はバッチリ。お世話になったヘルパーさん達へのお礼などは自分で準備して済ませている様子。
介護認定面談日の変更
父の退院は吉報でしたが、想定外でスケジュールが遅れることとなってしまったことがありました。それは介護認定面談日です。
既に、最寄りの地域包括支援センターの親切な看護師さんのアドバイスと励ましを受けながら、市役所への介護認定申請書の提出を済ませていた私。
それは、N大病院の主治医からもアドバイスを受けていて、「お父さんがご自宅に戻ったら、なるべく早く訪問介護を受けられるようにするためにも、早めに(そして少々大袈裟な)介護認定申請書を提出しておくことをお勧めします」とのこと。
市役所の担当部署の方たちもとても親切で、申請書を受取ったらすぐに連絡を頂くことが出来ました。そして、N大病院まで父の介護認定のために行って下さることになっていたのです。介護認定のルールで、対象者の生活環境が変わったら、変わって1週間経たないと介護認定面談を出来ないそうです。となると、嬉しい退院ですが、退院して1週間経たないと介護認定面談を受けられないことになってしまいました。
25日の1週間後は年末年始のお休みになってしまいます。結局、年明け1月4日の仕事始めの日に介護認定面談を受けることで調整を済ませました。この時は、父がお正月に家でおせち料理を食べてのんびり過ごしていることを疑っていませんでした。
荷物を持つ父
父のこだわりが強かったので、持ち込んでいた荷物が多くなり、退院前に必要がないものは家に持って帰ろうと、退院の3日前に、私は海外出張で使っているキャリーバッグを持って病院に行きました。
キャリーバッグだけでは入りきらず、父のボストンバッグも使ってかなりの荷物を持って帰ろうとした時・・・
父「薫!!お父さんが、下まで一緒に持って行ってあげるから!!」
私「えっ!!!(^_-)-☆」
父のお腹にはストーマ、もう点滴はしていないけど、3週間前にお腹を切った人です。
大人しく寝ててくれていいのに…と言う間もなく、ボストンバッグを背中に背負って、
キャリーバッグを持った私の前をスタスタと歩いて病院の1階まで力強い足取りで歩く父。
「お父さん、おとう―さん!!ちょっと待ってよ!!」
キャリーバッグを持っているので私の方が遅れがち。
「はい、気を付けて持って帰りなさい」と、昔のように優しそうに微笑んでいる父の顔。
病院のドアを出て、10mくらい歩いて振り向くと、父がじっと私の方を見ていました。
それは、約15年前にNYに連れて行ってあげた時、NY市内のヒルトンホテルで、LA経由で帰るため早朝に出発する私を迎えに来てくれた現地の友人と一緒にホテルを出ていくところを、起きてこなくてもいいよ!と言ったのに、朝早く起きて来て優しい笑顔で見送っていた父の姿に記憶が被りました。
「お父さん。良かったね、鰻が食べられるよ・・・」
心の中で言いながら、落ちてきた涙を拭いた私。
後にも先に、病院で泣いたのはあの時だけでした。そして、それはうれし涙だったのか、悲しくて泣いたのか?今でもよく分かりません。
覚えているのは。父の変わらぬ優しい笑顔だけです。
To be continued
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